1 はじめに:反DEIの波~世界の情勢
ここ十数年、ダイバーシティ・エクイティ&インクルージョン(DEI)の取り組みは、国内外で急速に広まりを見せてきました。企業は社会課題への対応として、多様な人材の採用、ハラスメント防止研修、LGBTQ+施策の導入、女性管理職比率の向上目標など、積極的に施策を打ち出してきました。
しかし最近、海外の一部で「反DEI」の動きが強まっているというニュースを目にした方も多いのではないでしょうか。実際に、アメリカでは、トランプ再選以降、連邦政府および州レベルでジェンダーや性自認に基づく教育・保護を制限する政策が立て続けに導入または提案されています。例えば、2025年1月に署名された大統領令では、学校が性自認を尊重する指導・名前・代名詞の使用を含む施策を実施することを制限し、そうした学校への連邦資金の交付を停止または差し控える可能性があることが示されました。
それを受け、コロンビア大学、ミシガン大などアメリカの多くの大学が、州や連邦議会からの圧力を背景にDEIのオフィスやプログラムを廃止することを発表しました。また、学生支援センター・LGBTQ+センター・多文化センターなどを含む部署を閉鎖し、名称変更・役割縮小を余儀なくされた例が多数報じられています。
軍隊(アメリカ国防省)においても、米軍からDEI(多様性、公平性、包括性)推進の取り組みを排除する措置を取るよう求める大統領令や、性自認を理由に軍サービスからの除外を命じる大統領令(EO 14183)などが発せられ、トランスジェンダー等の人々が現役兵としての立場や将来の採用で不安にさらされる状況が生まれています。
さらに、デマ・誤情報がDEIを巡る反発を助長する事例も目立っています。例えば、2025年初めにワシントンDC近郊で起きた飛行機と軍用ヘリコプターの空中衝突事故では、一部の政治家やメディアで「DEI文化が乗員の能力を犠牲にしているからだ」といった主張がなされました。しかしながら、運輸当局や航空専門家は、調査の初期段階でもそのような因果関係を示す証拠は確認されていないと明言しており、これらの主張は根拠の薄い仮説か、ミスリードであるという見方が一般的です。
こうした事例が示しているのは、単なる政策や事件だけでなく、「多様性」そのものの価値が社会的な議論の俎上に載せられているという現実です。つまり、これまで前提として共有されてきたはずの「多様性は社会や組織に必要である」という合意自体が、揺さぶられていると言えるでしょう。
その流れを受けて、「誰もが働きやすい職場、誰もが生きやすい世の中を目指す」という理念そのものが、公的・政治的議論の場で公然と疑問視されることが増えています。私たちは、この状況をどう受け止め、職場のなかでどのようにDEIの必要性を伝えていけばよいのでしょうか。
2 日本の動き:経産省「企業の競争力強化のためのダイバーシティレポート」など
一方、日本国内では必ずしも「反DEI」が主流ではありません。むしろ政府や経済界は、人的資本経営やESG投資の流れを背景に、これまで以上に多様性を企業の競争力強化の要と位置づけています。
2025年4月には、経済産業省が「企業の競争力強化のためのダイバーシティ経営レポート」を公表しました。
冒頭で「現在、海外でDEIに関して様々な議論が起こっているが、本レポートで取り上げるように、日本企業にとって競争力強化のために多様性推進が重要であることは変わりない」と謳い、DEIを「社会的要請」から「成長戦略」へと明確に位置づけました。経団連や新経済連盟も、多様性推進を企業の競争力の要として共同声明を出しています。
また、法制度に目を向けると、2025年6月、参議院厚生労働委員会で「労働施策総合推進法」の一部改正案が可決されました。
この改正案には、性的指向・性自認に基づくハラスメント(SOGI ハラ)や、カミングアウトの禁止・強要がパワーハラスメントに該当し得ること、就活生に対する SOGI ハラ防止の必要性などが附帯決議で明記されており、企業に SOGI ハラ対策を義務づける方向への重要なステップとなっています。
住民票の「続柄」の表記でも、同性パートナーに関する変化が複数自治体で進んでいます。
たとえば、長崎県大村市が2024 年 5 月に同性パートナーの続柄欄に「夫(未届)」「妻(未届)」と記載できるようにしたのを皮切りに、栃木県鹿沼市、神奈川県横須賀市、東京都世田谷区・中野区・品川区などでも同様の制度を導入または表記の選択肢を認める動きがあります。併せて、災害弔慰金の支給を同性パートナーにも適用する制度も導入が進んできています。これによって、同性パートナーシップ制度の実用性が前進しています。
こうした流れを受けて、日本では、DEI、LGBTQ+施策を「社会の要請に応じ実施する」段階から進化させ、各社の状況に合わせ、多様性推進を経営の中に位置づけていくことが求められています。制度導入や数値目標にとどまらず、「自社ではなぜ取り組むのか」「どんな価値を生みたいのか」を明確にし、実効性ある形で取り組みを深化させていくことが、これからの企業に期待されていると言えるでしょう。
3 「反DEI、LGBTQ+」的な声の背景にあるもの
それでも、社内外で「反DEI,LGBTQ+」的な言説に出会う場面は増えてきているかもしれません。たとえば次のような反応です。
- 「自分たちは関係ないのに、なぜそこまで配慮するのか」
- 「新しい用語や制度が難しくてついていけない」
- 「これ以上ルールを増やされると窮屈だ」
- 「結局は見せかけの取り組みではないか」
- 「多様性を認めないのも多様性だ」
ある企業の事例では、LGBTQ+研修を導入した際に「業務に関係のない内容をやる意味があるのか」という反発が一定数あったと言います。しかし、研修の中で「社内に当事者が実際にいる」ことが共有されると、受講者の多くが「知らなかった」「安心して働ける職場づくりに関われるなら意味がある」と受け止め方を変えていったということです。
こうした反発は単なる拒絶というより、「置き去り感」「理解しづらさ」「変化への抵抗感」から生まれやすいです。さらに、表面的なスローガンや形式的な施策だけが先行すると、不信感が募るのも無理はありません。
結局のところ、こうした逆風が強まっているのは、これまでのDEI施策が「表層的ダイバーシティ(性別や性的指向、年齢、バックグラウンドなど属性の多様性)」にとどまり、「深層的ダイバーシティ(価値観や思考、経験の多様性など思考の多様性)」につながる実感を多くの人が持てていないからではないでしょうか。数値目標や制度導入といった取り組みは確かに必要な入口ですが、それだけでは「なぜ多様性が必要なのか」「自分の働き方や組織にどんな価値をもたらすのか」という納得感にはつながりにくいです。
不確実性が高まる時代に新しい発想やイノベーションが必要不可欠だというのは多くの人が理解しており、実際、各企業のホームページを見れば「多様な価値を創造する」といったメッセージが判で押したように並んでいます。しかし、その源泉が実は「表層的な違い」にあるのだという実感が、まだ十分に共有されていないのではないでしょうか。
4.それでもLGBTQ+施策に取り組む理由
では、逆風があるにもかかわらず、なぜ私たちは今、LGBTQ+施策を進め続ける必要があるのでしょうか。当社のお客様の取り組みを例に考えてみましょう。
① 社員はじめ、全てのステークホルダーの尊厳を守る責任
「すべての関係者に安心と尊厳を保障する」ことは、企業が果たすべき基本的責任です。
たとえばイベント制作会社のA社では、イベント業界における「誰もが安心して楽しめる空間づくり」を目指し、LGBTQ+を含む多様な人々への配慮をイベント設計に組み込む取り組みを進めています。イベントにおける対応マニュアルの整備を通じて、社員の意識変革にもつながっています。
② 経営戦略・人的資本経営の観点からの必然性
LGBTQ+施策は、経営戦略や人的資本経営の観点からも重要です。
製薬業界のB社では、「すべての社員がありのままで、差別を受けることなく活躍できる環境を整えることが、ビジネスの成長にもつながる」というビジョンを掲げています。
この理念に基づき、社員一人ひとりの心理的安全性を担保しながら、会社が急速に大きくなる中でさまざまな多様性を積極的に取り入れてきました。
こうした取り組みは、人的資本経営の観点からも、社員のエンゲージメントや組織の持続可能性を高める重要な要素となっていると言えるでしょう。
③ 社内外に姿勢を示す意義
旗を掲げる姿勢そのものが、社内外への強いメッセージになります。
化粧品メーカーのC社では、LGBTQ+施策を進めるにあたり「美容業界のジェンダー平等を後押しできる企業になりたい」というビジョンをもっているそうです。美容業界は女性やLGBTQ+当事者の割合が比較的高いとされる分野であり、b-ex社はメーカーとしての役割を超えて、業界全体の変革を牽引する存在になることを目指しているとのことです。
このように、企業が自社の枠を超えて社会や業界へのインパクトを意識した姿勢を打ち出すことで、社員の誇りやモチベーションを高めると同時に、社会的信頼やブランド価値の向上にもつながります。
さらに、反DEIの波に晒されながらも取り組みを継続している海外企業の事例を見ると、一貫したLGBTQ+施策がブランドや株価にも影響を与えることが分かります。
- Appleは毎年プライド月間に合わせて「プライドコレクション」を発表。2025年版でも、プログレスプライドカラーを手作業で組み合わせたApple Watchバンドや、iPhone・iPad向けの壁紙・文字盤を展開しました。
こうした取り組み継続の背景には、2025年2月の株主総会で「DEI施策の廃止」を求める提案が否決されたという経緯があります。Appleはその場で、「多様な背景や視点を持つ人々が集まることこそがイノベーションの源泉である」との考えを改めて示し、企業としての姿勢を明確にしていたのです。
- Levi’sは以前から積極的にLGBTQ+支援を表明し、その一貫した姿勢がブランドの信頼性を高めています。2025年も引き続きPrideコレクションを発表し、株主からは「持続可能な企業価値向上に資する」と評価され、ESG投資の観点で高く支持されています。
これらの事例が示すのは、LGBTQ+施策は当事者のためだけでなく、組織文化を刷新し、顧客・投資家・社員からの信頼を獲得する戦略的投資だということです。
5 現場でできる3つのアクション
大きな戦略を描くことも重要ですが、日々の現場で実践できるアクションもあります。担当者一人ひとりができる小さな一歩の積み重ねが、やがて大きな変化のうねりを生み出します。それはまるで「種をまく人」のような営みと言えるでしょうか。
すぐに芽が出るとは限らなくても、土を耕し、種をまき、水を注ぐことで、未来に向けた確かな土壌が育まれていきます。
今はもしかすると、業界や国によっては「反DEI」の強い逆風にさらされていて、派手に枝葉を伸ばすことは難しいかもしれません。けれども、だからこそ、地道に根を張り、土を耕すような取り組みが求められています。
① 対話を恐れない
誤解や反発を恐れるあまり、対話を避けてしまうことは逆効果です。あるメーカーでは、LGBTQ+施策導入前に「理解できない」と声をあげた社員に直接ヒアリングを行い、不安を丁寧に拾い上げました。その結果、最終的にはその社員が制度の推進役となり、組織の変化を後押しする存在へと変わったのです。対話には人の姿勢を変える力があります。
② ストーリーで伝える
数字や制度の説明だけではなかなか人を動かせないとも言われます。ある外資系企業では、社内イントラに「当事者社員のストーリー」を掲載しました。すると閲覧数は数千件に達し、他の制度紹介ページを大きく上回る関心を集めたとのことです。人は理屈よりも物語に共感する生き物です。個人の体験談や具体的なエピソードを共有することで、多様性を「自分ごと」として感じてもらいやすくなります。
加えて、施策全体に一貫した「戦略としてのストーリー」を持たせることも重要です。個別の制度や取り組みがバラバラに見えてしまうと、社内の納得感は得られません。
「なぜこの施策をやるのか」「どこに向かっているのか」という全体像を示すことで、社員は自分の役割を理解し、施策に意味を見出すことができます。ストーリーは、共感だけでなく、戦略的な納得にもつながるのです。
③ 専門家とつながる
DEIやLGBTQ+施策は幅広く、担当者一人で背負うには限界があります。ある食品メーカーでは、外部団体と連携してトランスジェンダー社員向けのサポートガイドラインを整備しました。結果、社内からの相談件数が増え、「声をあげやすい環境」への一歩となりました。外部の専門家や団体と協働することは、最新の知見や実践的なノウハウを取り入れる近道でもあります。
④ 表層的ダイバーシティを越えるために
第3章で触れたように、施策が「表層的ダイバーシティ(属性の違い)」にとどまっているように見えてしまうと、社員の納得感や実感にはつながりません。
それを打ち破るためには、①〜③のアクションを「深層的ダイバーシティ(価値観・思考・経験の違い)」につなげる視点が必要です。例えば、
・対話を通じて、異なる価値観に触れる機会をつくる
・ストーリーで、個人の背景や思考の多様性を可視化し、腹落感を引き出す
・専門家と連携し、制度設計に多様な視点を取り入れる
これらを一貫した戦略ストーリーで束ねることで、「違いがあるからこそ強い組織」へと進化し、真に違いを尊重できる組織に成長していけるのではないでしょうか。
6 まとめ
「反DEI」「反LGBTQ+」の波が押し寄せる中で、担当者としては心が折れそうになることもあるかもしれません。けれども、逆風は必ずしもマイナスだけではありません。風が強いからこそ、旗ははっきりと翻ります。
私たちは「今は理解されにくいかもしれないが、未来に向けて確実に必要な種をまいている」のだと自覚することが大切です。
目の前の反発や疑問も、対話を重ねれば学びの機会に変わります。
そして、こうした逆風をうまく力に変え、社内で旗を立てていくためには、世情を敏感にキャッチし反証する材料を豊富に有している外部の専門家の力を借りるのも有効です。
最新の動向や実践事例を知り、施策に説得力を持たせることで、社内の理解と共感を一歩ずつ広げていくことができます。
株式会社アカルクでは、LGBTQ+に関する研修や制度設計、人的資本開示を見据えた方針づくりまで、企業の状況に合わせた伴走支援を行っています。
「表面的な取り組みを一歩進め、社員の腹落ち感を引き出したい」「制度を形骸化させず、実効性のある仕組みにしたい」といったご相談にも、現場に根ざした豊富な知見でお応えします。
逆風をチャンスに変え、旗を掲げ続けたいと考えるご担当者様は、ぜひお気軽にご相談ください。
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執筆者:ししまる
IT中堅企業の人事としてDEI施策全般を主導する傍ら、社内外でLGBTQ +の支援活動にも従事。企業内担当者として、さらにイチ当事者としての目線からも、自分らしく働ける組織づくりについて発信します。